鳥類愛好家にして研究家。文人。「野鳥」「探鳥」という言葉の創作者。日本野鳥の会創設者。鳥獣保護法の制定に深く関わる、などなど。
それが中西悟堂であるが、名前は知っていても、著作をまとめてお読みになったことはないかもしれない。私は読んだことがなかった。
このたび、平凡社スタンダードブックスのシリーズとして、悟堂のエッセイが出版されることになった。おそらく、既に書店に並んでいるであろう。
悟堂の描く鳥類の観察は、現代の我々にも共感を呼ぶものだ。狭苦しいブラインドにこもって観察を続ける苦労の描写に「そう、それそれ」と頷きつつ読み進めてゆくと、唖然とする記述に出くわす。唐草模様の布を被って池の中に1日じゅう立っていた? いや、理屈はわかる。しかし、これを実行できるかと問われれば、できないとは言いたくないが、ためらいはする。
悟堂の尽力により、鳥類の保護や保全という意識は格段に広まったといえる。鳥は捕まえて飼うか食うもの、という意識を、「野の鳥は野に」と改めさせたのは、ひとえに悟堂の功績である。しかし、野鳥を取り巻く現状はどうか。本書に描かれた昭和前半の東京は、いかに鳥に満ちあふれていることか。善福寺公園にオオコノハズクやサンショウクイやサンコウチョウが繁殖するなど、今となっては信じられないことだ。鳥類学者として大変興味深く読みつつ、一方で暗澹たる気持ちにもとらわれる。悟堂の危惧した自然と人間との乖離は、そのまま現代にも通用する批判である。
悟堂が鳥を見つめる目はどこまでも優しい。悟堂はまず鳥を愛し、それゆえに知ろうとした人であった。現代の科学は徹底して感情を排した記述に終始する。それは客観と再現性を重んじることが科学の要請であるからだが、一方でシステマティックな、知性のみに駆動された研究スタイルを生んでもいる、とも言えるかもしれない(ただ、一言、弁護させてもらうならば、多くの研究者は論文に書かないだけで対象生物への愛を持っているものだし、全ての研究者が知的興味のみから研究を始めたわけでもない。でなければ誰が苦労して鳥など観察するものか)。
飼育に関する章も大変に興味深いものだ。このように、生きた鳥が育つ過程を間近に見ることは、鳥類学者の夢である。
また、ここに描かれた鳥類の飼育手法は、長い年月をかけて培われた、そして今は失われつつある一つの文化であり、鳥類の習性を知り尽くしていなければできないことだ。
現代において野鳥を飼育することは基本的に禁じられている。これは鳥を守ることと表裏一体のジレンマだ。密猟や乱獲は決して過去のものではないし、狩猟法の抜本的な改正(これも悟堂らの努力による)は戦後のことである。乱獲に心を痛める一方、鳥好きゆえに鳥を手元に置かずにおられないという素直な感情も、エッセイからは浮かび上がってくる。
悟堂の思想は、常に彼の鳥を見つめるまなざしと一体である。その抑制的な視点は、ホシガラスの巣らしきものが見つかっても、「雛がいたわけではないのだから」と結論を避けていることからも明らかであろう。彼は科学の偏重に警鐘を鳴らしたけれども、それは決して浅薄な野次や皮肉ではない。自ら客観的な観察を実践した上でなお、「生物の生態観察は(中略)広範な哲学であり、高貴な詩である」と言っているのだ。だからこそ、その中から紡ぎ出される言葉は梵百な絵空事ではない、リアルな重みをもって今も我々に届くのである。 松原始
フクロウと雷 中西 悟堂 著
平凡社 STANDARD BOOKS
ISBN: 9784582531602
本体 : 1,400円+税
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