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鳥を見た人間の心の動き

「本州の北のはずれで、私をじっと待っていて呉れたのは君だったのだね、と小声で挨拶すると、この白鶺鴒は真面(まとも)に私の方を見詰めずに、ひと声、小さい恥じらいの歌を聞かせそうになった。
私は嬉しさに、うっかり声を出しそうになってしまったが、この鳥の、おだやかな恥じらいの横顔から香気が漂うのが嬉しく、小鳥も私も現在、此処に生きていること、そして何故か最高の歓喜に浸っていることが、共に涙になりかけるのだった」。
これは、詩人とも哲学者とも呼ばれる串田孫一の著作『鳥と花の贈りもの』の一節。鳥をテーマに綴った散文詩と、叶内拓哉さんの写真で構成された130ページほどの本です。

表紙の洒脱な鳥や草花の絵も串田孫一のもの

鳥に出会ったときの心の動きを、普通の人間はここまで言語化できせん。
鳥を見たとき、私たちの心の中にはいろいろな動きが生まれます。さざ波のようなその微妙な動きを、この哲学者は微に入り細に入りして言葉にします。
ボキャブラリーやレトリックが多彩。バックグランドとしての読書量や素養も豊富。しかし、それ以前に、自分の心の動きをじっと眺める眼力があるから書けるのでしょう。バードウォッチャーの心の動きを知る意味でも、貴重な読書体験でした。
長くなりますが、サギを描いた「化身」を引用します。
「私にとって時間が消えていた。止まっていたのではない。
西方十萬億の國土を越えた極楽を、自分の好みに合わせて改造していた。四宝で飾られた建物も要らない。底に金紗の光る池も要らない。苦がなく楽にみちているというが、苦のない楽など私には考えられない。
でも、目の前の風景を、焦点を一ヶ所に置いて見ていると、頻りに身繕いしている白鷺は眩しい程に白く、蓮の花から生まれかわったものかも知れないと思う。すると此処は極楽であってもいい。きらびやかな楼閣がなくとも、楽の音らしいものがさっぱり聞こえて来なくとも、此処は私の、今日の地上の楽園である。これ以上の贅沢は望まない。
時々翼をひろげて飛ぶ姿を見せかけるこの鳥は、鷺といわれていることも知らない化身である。恐怖も知らず、孤独を寂しがる容子もなく、この鳥にも時間がない。だが鷺が飛び立って行くと私には時間が纏いついた」。

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